「もう無理かも…」そんな夜に、あんたのこと思って書いてるで。
「明日も頑張らなあかん」
その言葉、もう何回心の中で繰り返したやろな。
疲れてるのに寝られへん夜。
SNSではみんなが輝いてて、
ほんまは十分ようやってるのに、「もっとちゃんとせな」って、
なあ、ちょっと聞いて。
うちのオカン、よう言うてたんや。「詰んだら次、将棋と一緒や」
これ、どん底や思てたワイを救ってくれた言葉やねん。
明日を“楽しく”生きる。それでええんやで、ってオカンは言うてた。
「明日も頑張らなあかん」
そら、何かとやらなあかんことはある。
でもな、そればっかりに縛られてたら、心がパンクすんで。
オカンはな、
「頑張るのはええことやけど、“頑張らな”に追われたらアカン」
そう言うて、台所でスイカ切りながら笑ってたわ。
“頑張らな”って言葉が、自分を締めつけとることもあるんや
気づかんうちに、やらなアカンことを“自分で”増やしてへん?
- あの人に迷惑かけたないから
- もっと認められたいから
- 遅れたらアカン、置いてかれたら怖い
気持ちはよう分かる。
でもな、それって知らん間に、心の自由を削ってるんよ。
「頑張る」って、ほんまは自分のためにあるはずの言葉やのに、
いつからか「誰かの期待」に応える義務になってしもうてる。
「詰んだら次。将棋と一緒や」─オカンの一言が、夜のどん底に響いた
就職活動でどこにも受からんかったときや。
毎日履歴書を送っては断られて、最後にはもう、「これ以上どうしたらええんやろ?」って、完全に心が折れてた。
夜中に泣きながら「もう詰んだ…」って言うたら、
オカン、味噌汁をすする音が静かに響いてて、何気ない声で言うたんや。
「詰んだら次や。将棋と一緒やろ。詰んだからいうて、
…一瞬「なんやねんその例え」、って思たけど、なんかスッと入ってきた。
さらにオカンが言うてん。
「将棋でも、詰んでも、もう一局やるやろ?人生も同じや。詰んだって思った瞬間が、ほんまに終わりってわけやないんや。」
その言葉が、何か重いものをふっと取り払った感じがしたんや。
人生、どうしても上手くいかんとき、何度も自分を責めてまうけど、オカンが言う通りやなって思った。
将棋でも、ゲームでも、負けたら終わりいう決まりない。
次の一手を考えたら、また新しい道が見えるんやな。
「人生終了」なんてことは、ほんまにないんや。
それから少しずつ、自分のペースで前を向けるようになった。
オカンが言うた「次」を、ずっと心の中で繰り返して、無理せず、焦らず、少しずつまた動き出すことができた。
人生は、次がある。それを信じて歩き出したんや。
頑張るのもええ。でも「楽しむ」は、もっとええ
しんどいときほど、「楽しい」ってことを忘れてまう。
でもな、オカンはこうも言うてたで。
「楽しむのは“甘え”ちゃう、“技術”や」って。
今日できたこと、声に出して褒めてみ?
・朝ちゃんと起きた
・出勤した/学校行った
・人にやさしくできた
・今日はちゃんとご飯食べた
──それ、全部立派な“やったこと”なんやで。
「当たり前のことやん」って思うかもしれんけど、
オカンやったら、「ようやったやん。今日の分はもう合格や」
「比べる暇あったら寝とき」って、オカンの金言集その2や
SNSで人の成果見るのは自由やけど、あれって基本“ハイライト
他人の成功だけ見て、自分の未完成を責めるって、ほんま損やで。
オカン曰く、「比べたところで、あんたの身長は変わらへんで。」
──なんのこっちゃ思うやろ?でもな、
詰んだら…って言いたなったら、言うてええ。ただし、
「詰んだかも……せやけど、次や次!」
それだけで、心にスペースができる。
余白ができたら、人はまた動けるようになる。
「明日も頑張らなあかん」って、ほんまか?
──たまには「今日は、ようやった」で止めてもええんやで
明日も、明後日も、ずーっと頑張り続けなアカンわけやない。
休んだってええし、立ち止まって空見上げたってええ。
オカンやったらこう言うわ。
「生きてるだけで、今日は花丸や。たまには自分に甘くしとき」
しんどくなったら思い出してや~
- 「明日も頑張らなあかん」って思ったときは、
自分を追い込む前にオカンの声を思い出してな。 - 「詰んだら次、将棋と一緒や」
- あんたはひとりやない。しんどい夜は、
こうして誰かが一緒に考えてる。 - 頑張ることは尊いけど、頑張らん日も、同じくらい価値があるで。
【免責事項】
本記事は、
心理的・身体的な症状が続く場合は、
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