“ちゃんと”って呪いやないか?
最近、SNS開いたら目に入るんは、朝5時起きでヨガして、ぬか漬け混ぜて、珈琲豆挽いて、
静かに本読んで、手帳に目標書いてって人、多ない?。
それ見て、「あぁ…自分もちゃんとせな」って思うてしまう人、
「丁寧な暮らし」って言葉が、本来は自分を大切にするためのもんやのに、いつの間にか、自分を責める武器になってへん?
その気持ち、ようわかる。
でもそんなとき、必ず頭に浮かぶんは、うちの昭和オカンの“雑で強い”生き方やねん。
ていねいより、ちゃっちゃと済まし。それがオカン流。
うちのオカンは、いわゆる“丁寧な暮らし”とは真逆の人やった。
ちゃぶ台の上には、スーパーの総菜。
洗濯は天気に関係なく部屋干し。
味噌汁は毎回ほんだし、しかも、たまにインスタント。
でも、そんなオカンの口ぐせが、今でも自分の心を支えてくれてる。
「アホちゃう、そんなもん“命”に関係ないことは、
“ちゃんとせな”が、
自分も一時期は、頑張ってたんよ“ちゃんとした暮らし”に。
休日にジム行って、意識高い系の自己啓発セミナーに行って、寝る前に難しい本読んで…
それはそれで幸せやったはずやのに、あるとき気づいたんよ。
「あれ?なんで“幸せのための暮らし”で、こんなに疲れてんねやろ」って。
丁寧さって、追い求めすぎると“義務”になってまう。
完璧に近づこうとするほど、足りへんて自分を責めてまう。
本末転倒やったわ。
ある朝のオカンの“スルースキル”が人生の教材やった
小学生のときや。
朝から課外授業で、「お弁当持参」の日やったんよ。
前の晩、ちゃんとオカンに言うたつもりやってん。
けど当日の朝、玄関出る直前に確認したら、オカンが一瞬止まった。
「は? 今日お弁当?……しゃーないな」
怒るでもなく、慌てるでもなく。
その“しゃーないな”の一言に、妙な風格あった。
そこからのオカン、爆速やった。
冷ごはんをチンしてる間に、卵を片手でパカッ、菜箸で雑にガーッとかき混ぜて、味つけは塩だけ。
フライパンに流し込んで、巻かずにただ二つに折っただけ。
ウインナーは袋から出してそのままやくだけ。
切れ込みもなけりゃ、タコにもしてへん。
そんでミニトマトをポン、ポンと放り込んで、ぜんぶ白ごはんの横に「のせた」だけ。
仕切りも、色どりも、愛想もゼロ。
詰めることすら放棄して、アルミホイルをふわっとかぶせて一言。
「はい、これで十分。中身より気持ちや。文句あるなら、自分で作りぃ」
正直、みんなの前でその弁当開けた時は、ちょっと恥ずかしかったんや。
でもな、その弁当食べてたら友達が言うたんよ。
「ええなあ~、めっちゃ豪快やん!お前のオカンってカッコいいな~!」って。
…そう、オカンは“豪快=愛情”をよう知ってた。
見栄えや丁寧さやのうて、“やるべきことを回す力”がすごかった
“完璧”や“丁寧”が正解とは限らんのや。
オカンは、失敗も、予定外も、怒らず騒がず、スルーして”回す力”を持ってたんや。
見た目より“まわす力”。
感情より“前に進む力”。
あの朝の雑すぎるお弁当が、いま思えば、人生で”いちばんうまい弁当”やった。
がんばらんでも、日常はまわるで
「丁寧な暮らし」って、何も毎日きちんとせなアカンことちゃう。
むしろ、“手抜き”やなくて“手放す”っていう知恵が大事や。
明日からできる「ちゃちゃっと済まし術」
- 洗濯、週2でええ。匂わんかったら着まわせる。
- ごはん、冷凍うどんと卵で立派な一品。
- 掃除、気になったとこだけで合格。
- 「今日はしんどいな」って思ったら、堂々とサボる日を作る。
そして、自分にこう言うてあげてな。
「今日もようやった。ほんで、明日は明日で何とかなる」
“ちゃんと”の反対は、“ずぼら”やない。“自分らしさ”や
暮らしに”丁寧さ”は必要かもしれん。
でも、それに振り回されて、心がすり減ってたら本末転倒やんか。
うちのオカンはよう言うてた。
「暮らしを綺麗に見せるより、人生を楽に回す方が大事やで」
ほんまそ、ちゃちゃっと済ますことは、”ズボラ”やない。
“自分の心を守る選択”なんや。
どうか、自分に優しくなれる「ちゃっちゃと暮らし」を、今日からちょっとずつ取り戻してな。
「丁寧にできひん自分」に落ち込んでるなら、その手を止めて、オカンの声を思い出してみて。
「生きときさえすれば、またなんとでもなるわ」
ほんま、それだけでええんやで。
【免責事項】
本記事は、あくまで筆者の体験と意見を元にしたものであり、医学的・心理的アドバイスを提供するものではありません。心身に強いストレスを感じる場合は、
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