見てほしい、褒めてほしい、でも…
SNSに写真を上げても、いいねが少ないとなんかモヤモヤする。
職場でも家庭でも、ちゃんと頑張ってるのに、
「すごいね」「えらいね」って一言が欲しなって、ほんまはもうヘトヘトやのに、無理してまう夜もある。
…そんな風に、”自分”をすり減らしてへん?
そんなあんたに聞いてほしい言葉があるんや。
うちの昭和のオカンが、よぉ言うてた言葉。
「誰も見てへんで。そやけど、自分が見てたら、それでええねん」
一見つれないようで、実はめちゃめちゃやさしい言葉やった。
今日はその話、聞いてくれへん?
誰に見られてるかより、自分がちゃんと見てるかやで
”人に認められたい”って気持ちは、時々、自分を見失わせるねん。
「承認欲求」って、決して悪もんちゃうねん。
人に褒められて嬉しいのは、あたりまえやし、「誰かの役に立ちたい」「がんばってるって思われたい」って、人間らしい素直な気持ちや。
でもな、それが強なりすぎると、“人の目に映る自分”ばっかり追いかけて、“ほんまの自分”がどっか行ってまうんや。
しんどいのに笑ってまう、やりたくないのに「やります!」言うてまう、気づいたら、誰かの評価でしか自分を測られへんようになってる。
オカンはそれを見抜いてたんやろな。
文房具と、オカンのひと言の話
小学生のときの話や。
当時、クラスでちょっとええシャーペンが流行っててな。
「芯がスーッて出てくるねん!」「消しゴムも丸くてカワイイ!」
みんな持ってて、それを使ってるとなんか”特別”な気がするような気いして、どうしても欲しかってん。
あの時は、あの文房具を持つことで、なんとなく自分が”特別な存在”になれるような気がしててん。
晩飯のあと、勇気出してオカンに言うたんや。
「なぁオカン、あのシャーペン欲しいねん。みんな持ってるし…」
ほなオカン、テレビ見ながら、
「それ、ほんまに自分が使いたいんか? それとも“見せたい”だけなんか?」
…図星やった。
自分が欲しかったのはシャーペンやなくて、ただ”周りの目”やった。
「うわ、すごいやん!」って、そんな風に思われたかっただけねん。
オカンは続けた。
「流行もええけど、自分が気に入ってんのが一番やろ、そんなん誰も見てへんて。自分が気に入ってたら、
そのとき、素直に納得できんかったけど、今考えたらオカンの言葉がめちゃくちゃ深いんやなって。
あの時は、ただの”シャーペン”が欲しかっただけやったけど、オカンのひと言で気づいた。
”周りの目”を気にして、必死で誰かに”認めて”もらいたくて、自分を見失ってたんやって。
あの頃はオカンの言葉が重くて嫌やったけど、今ではその言葉がどんどん心に染み込んでくる。
自分が気に入ったもん、ほんまに好きなもん、”それを大切にすること”が、結局は一番幸せなことやったんやな。
あのシャーペンを持ったことで、ちょっとだけ“特別”になれる気がしてたけど、今は自分が一番大事にしてるのは、他の誰でもなく、自分の“気に入った”もんやなって、ほんまに思うようになった。
「見られてる自分」より、「見てる自分」であれ
「誰かに見ててほしい」って気持ちは自然やけど、 “自分が一番の観客”でええんちゃうか?
そっちのほうが、”人生ラク”になるし、自分を裏切らんですむ。
ほな、どうしたらええか? オカンのヒントをいくつか紹介するで。
・自分で自分を褒める日記をつける
「今日はちゃんとごはん作った」「泣きながらでも会社行った」
どんな小さなことでも、自分で自分を“えらい”って言うてみて。
・「これ、なんのためにやってるんやろ?」って立ち止まる
SNSの投稿、無理なスケジュール、なんでやってるんやろ?
誰かに「すごいね」って言われるためだけなら、ちょっと立ち止まってもええかもしれへん。
・“自分が喜ぶ”選択をしてみる
服、文房具、休日の過ごし方…”誰か”に見せるためやのうて、自分が気持ちよくなれる選択。
それがいちばん、ほんまの「自分らしさ」やで。
「見てくれる人」がおらんでも、自分だけは自分を見ててな
人に見てほしい、”認められたい”そんな気持ち、持ってて当然や。
でも、そればっかりやと、ほんまに”がんばってる自分”が、見えんようになってまう。
「誰も見てへんで。でも、自分が見てたら、それでええやん」
このオカンの言葉、しんどい夜に思い出してみてな。
あんたは、ようやってる。
誰かに見せへんかったとしても、”あんたの頑張り”、ちゃんと自分が知ってるやんか。
【免責事項】
※本記事は、筆者の体験と感情に基づいて構成されたものであり、
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