承認欲求で疲れた心に効く|オカンの「誰も見てへん」で自分を解放する方法

心がラクになる習慣

たとえば、日々の出来事をネットに投稿しても、思ったほど反応が返ってこんかったら、なんやモヤモヤしてまうやろ?

仕事場でも家でも、ちゃんと頑張ってんのに、誰も気づいてくれへん。
すごいやん」とか、「えらいな」って一言ほしいだけやのに、ほんまはもうヘトヘトやのに、つい無理してしまう時もあるやんか。――そないして、自分の心や体、すり減らしてへん?

今の時代、ネットや周りの評価、めっちゃ気になるもんな。誰かに見てほしい、認めてほしいって思うんは、しゃあないことや。でもな、その気持ちが大きなりすぎたら、いつの間にか自分らしさとか、本当の声がどっかいってまうこともあるんよ。

ほんまに今、誰かの期待や評価に応えようとして、無理しすぎてへん?
もしそうやったら、ちょっと立ち止まって、うちのオカンの言葉、思い出してみてほしい。

オカンがよう言うてたんや。
誰も見てへんで。せやけど、自分が見てたら、それでええねん」て。

一見、冷たそうに聞こえるかもしれへんけど、実はな、他人の目ばっかり気にせんと、自分のこと大事にしいやっていう、めっちゃ優しいメッセージやったんよ。

今夜は、このオカンの言葉に込められた本当の意味、いっしょに考えてみいひん?誰かの視線や評価から、ちょっとだけ自由になって、自分自身を見つめ直すきっかけになるかもしれへんで。

誰に見られてるかより、自分がちゃんと見てるかやで

誰に見られてるかより、自分がちゃんと自分を見てるか、これがほんまに大事やで。

今の世の中、職場や家でも「誰かに認められたい」って気持ちが強くなりがちやけど、それは人間として当たり前の感情や。みんな「褒められたい」「役に立ちたい」って思うんは、自然なことやし、そういう承認欲求があるからこそ、頑張れたり成長できたりもするんや。

でもな、その気持ちが強すぎると、いつの間にか“人の目に映る自分”ばっかり追いかけて、“ほんまの自分”が見えんようになってまうんよ。

たとえば、しんどいのに無理して笑顔作ったり、やりたくないことに「やります!」って言うてまうこと、あんたも経験あるやろ?気づいたら、周りの評価でしか自分の価値を測られへんようになってしまうんや。

もちろん、「他人の目を気にせんと生きろ」って言われても、すぐにできるもんやない。社会の価値観や周りのプレッシャーは強いし、誰でも認められたい気持ちはある。

でも、オカンの言葉みたいに「誰も見てへんで。せやけど、自分が見てたら、それでええねん」って思えるようになったら、少しは楽になれるんちゃうかな。

自分の頑張りや気持ちを、自分自身がちゃんと認めてあげること。それが心のバランスを取り戻す第一歩やと思うわ。

他人の視線より、自分自身を見つめる大切さ

しんどさの根っこをたどると、やっぱり「ちゃんと見てもらいたい」「認められたい」って気持ちが、心のどこかでずっと居座ってるんやと思うねん。

たとえば、周りに気を遣って、つい自分の本音を隠してしまったり、ほんまは弱音を吐きたいのに「大丈夫やで」って笑ってみせたり。気がついたら、「ちゃんとした人」や「頼りになる存在」って思われたくて、自分のキャラを演じてしまってること、ない?

でも、よう考えてみてや。人って、案外自分のことで手一杯やし、他人のことまで細かく覚えてへんもんや。自分が思ってるほど、周りは細かいところまで見てへんし、昨日のあなたの言動なんて、たぶんもう忘れてる。

それやのに、いつまでも「失敗したらどうしよう」「ちゃんとせなあかん」って肩に力入れてたら、ほんまに大事な自分の気持ちやしんどさが、どんどん後回しになってまう。

ええ人」や「できる大人」を演じることがクセになってしもたら、自分の中のSOSにも気づきにくくなる。誰にも頼らず一人で頑張らなあかん」って思い込んで、余計に自分を追い込んでしまうやろ。

ほんまは、もっと肩の力抜いてええし、弱さやしんどさを認めることこそが、自分を大事にする第一歩やと思うねん。

「特別」になりたかった小学生時代と文房具の思い出

小学生の頃、クラスでちょっと高級なシャーペンが流行ってて、みんなが「芯がスーッと出る!」「消しゴムが丸くて可愛い!」って盛り上がってた。

自分もそれを持ってたら特別な存在になれる気がして、どうしても欲しかったんや。
晩ごはんのあと、思い切ってオカンに「みんな持ってるし、あのシャーペン欲しい」って頼んだ。

そしたらオカンがテレビを見ながら、「それ、ほんまに自分が使いたいんか?それとも“見せたい”だけなんか?」って聞いてきて、ドキッとした。

実は、シャーペンそのものより「すごいやん!」って思われたい気持ちが強かったんやと、そのとき初めて気づいたんや。

あの頃の自分は、周りの目を気にして“特別”になりたかったんやと思う。友だちと同じものを持ってないと不安で、「仲間外れになるんちゃうか」って勝手に思い込んでた。

オカンの言葉は、そんな自分の気持ちを見抜いてて、素直に納得できへんかったけど、今思えば「自分が本当に好きなものを大事にしなさい」っていう深い意味があったんやなと感じる。

オカンの言葉が教えてくれた“自分の好き”の大切さ

あのときはオカンの言葉に納得できへんかったけど、大人になってから「自分が気に入ってたら、それでええねん」っていう意味がだんだん分かってきた。

あの経験をきっかけに、何かを選ぶとき「本当に自分が欲しいものか」「誰かに認められたいだけちゃうか」って自分に問いかけるようになった。仕事や人間関係でも、周りの評価ばかり気にしてしんどくなったとき、ふとオカンの言葉を思い出す。

誰も見てへんで。自分が見てたら、それでええねん」っていう言葉が、今も自分の基準を取り戻すお守りみたいになってる。

社会に出ると、どうしても人の目や評価が気になるけど、オカンのひと言があるから「自分がほんまに大事にしたいものは何やろう」って立ち止まれる。

流行や周りの目に振り回されず、自分の「好き」を大切にすることこそが、ほんまの意味で自分を幸せにする道なんやと、今なら胸を張って言える。

あの頃はただのシャーペンやったけど、今は自分の気持ちを大切にすることが何よりも特別やと実感してる。

自分を認めることが、ほんまの幸せへの第一歩

せやからな、「誰かに認めてもらわな価値がない」なんて思わんでええんや。あんたが毎日ちゃんと起きて、しんどくても必死に生きとるだけで、それだけで十分ようやっとるんやで。

せやからこそ、他人の目ばっかり気にして、自分の本音やしんどさを後回しにせんでええんや。誰も見てへん」って言葉をお守りにしてみてほしい。人の評価や視線に振り回されず、自分の気持ちや努力を自分で認めてあげることが、あんたの毎日をちょっとだけでも軽くしてくれるはずや。

大事なんは、「見られてる自分」より「見てる自分」でいることやと思う。他人の観客になるんやなくて、自分自身の一番の観客になってあげる。それがほんまの意味で“自分らしく生きる”ってことやし、自分を大切にしながら本物の幸せを感じる一番の近道や。

たまには肩の力を抜いて、自分らしく生きることも許してええんやで。完璧に頑張らんでも、あんたはあんたのままで十分価値があるんや。そう思えるだけで、心がふっと楽になることもあるんやで。

自分を大切にすることは、決してわがままやない。むしろ、自分を慈しむことで、しんどさを乗り越える力が湧いてくる。オカンの言葉を胸に、これからも自分のペースで歩んでいってほしい。

肩の力を抜いて、あんたらしく生きてええんや。そうやって、自分自身をちゃんと見てあげることが、ほんまの幸せへの第一歩や。

承認欲求に振り回されない、自分軸の整え方

誰かにすごいな」とか、「頑張ってるな」って言われへんかったら、自分の価値がグラグラ揺れる気ぃせえへん?

他人の言葉や評価がないと、自分をちゃんと認められへん――そんな風に感じてまうこと、きっと誰にでもあると思うねん。

でもな、そのままやと、誰かからの「えらいな」「すごいな」って言葉を燃料にして走る車みたいなもんや。ガソリンが切れたら、急に動かれへんようになって、心まで止まってしまうんよ。

ほんまに大事なんは、「自分はこれでええ」って、自分自身でハンドルを握ることや。「他人の評価」や「周りの目」に振り回されるんやなくて、自分の気持ちや価値観を頼りに、ちゃんと自分で進む道を選ぶこと。それが、自分を大切にしながら本物の幸せを感じるための一番の近道やと思う。

いきなり全部変えるのは難しいかもしれへんけど、今日から少しずつでも「自分のハンドル」を意識してみてな。具体的にどうやって自分軸を整えていけるか、一緒に考えていこな。

人にどう思われるかより、自分がええと思うかで決めてみる

これ選んだら、変って思われるかな?」とか「人からどう見られるやろ?」って、つい気にしてしまうこと、ない?

誰かの目や評価を気にして、本当は自分が好きなものや、やりたいことを我慢したり、遠慮してしまったり。そんな経験、きっと一度はあると思う。

でもな、他人がなんて言うかなんて、いくら考えてもキリがないし、結局は自分の心がしんどくなるだけやねん。

ほんまに大事なんは、「自分がこれがええ」って思えるかどうかや。他人の基準や流行、周りの反応に振り回されるんやなくて、自分の「好き」や「心地よさ」を大切にすること。

それが、自分らしく生きるってことやし、自分自身を大事にする第一歩やと思うねん。

人の目を気にして選んだものより、自分の「これが好き!」って思えるものを選んだときのほうが、心が満たされるし、自信もついてくる。たとえ周りと違っても、それがあんたの個性やし、本物の自分らしさなんやで。

今日からちょっとずつでええから、「自分が好きか?」を基準に物事を選ぶ練習、始めてみてな。最初は小さなことからで大丈夫やで。

自分の気持ちに耳を傾けて、自分の「好き」を大切にすること。それが、あんたらしい人生への一歩になるからな。

たまには自然の中で、ひとりになってみる

最近ちゃんとひとりで静かに過ごす時間、取れてる?

毎日バタバタしてると、ついスマホ見たり、周りの声ばっかり気にして、自分の心の声がどこか遠くに行ってしまうこと、あるやろ。せやけど、たまには自然の中で、あえてひとりになってみるのも大事やで。

今やったら、公園に行ってベンチに座るだけでもええし、スマホをポケットにしまって、空をぼーっと眺めたり、風や川の音に耳を澄ませてみるんや。誰の目も気にせんでええ時間、ただ自分の感覚に集中してみてほしい。

最初は落ち着かんかもしれへんけど、だんだんと自分の心の中の小さな声が聞こえてくるかもしれん。

今、何を感じてるんやろ」「ほんまは何がしたいんやろ」――そんなふうに、自分の本音や気持ちにそっと耳を傾ける時間を持つことで、周りに振り回されずに、自分らしさを取り戻せるんや。

忙しい毎日の中やからこそ、意識して「静かなひとり時間」をつくってみてな。

ほんの数分でもええから、自然の中で自分と向き合う習慣、今日からちょっとずつ始めてみてや。

なんにもがんばらへん日を作る

なんにもがんばらへん日、作ってええねんで」って、こんなふうに言われたら、ちょっとホッとせえへん?

毎日「ちゃんとせな」「何かせな」って気を張ってると、心も体もどんどん疲れてしまう。でも、たまには何もせんと、ただゆっくりして、ぼーっと過ごす日があってもええんや。

何もせんでええ日を作ることで、「毎日がんばらなあかんて思ってる自分って、ほんまはどうなんやろ?」って、普段気づかへん自分の本音が見えてくることがある。

ずっと走り続けてたら、自分の心の声も聞こえにくくなるけど、立ち止まってみることで、「あ、今こんなふうに感じてたんやな」って、素直な気持ちに気づけたりするんよ。

何にもせん日が、ほんまの“あんた”を引き出してくれる。がんばらへん自分も、ちゃんと自分の一部やし、そういう時間があるからこそ、また前を向いて歩き出せる力も湧いてくる。

だから、たまには「今日は何もせん!」って決めて、自分を休ませてあげてな。そのゆるみが、あんたらしさや本物の自分を見つけるきっかけになるはずやで。

結果より、“やったこと”を大事にする

結果ばっかり気にせんと、“やったこと”そのものを認めてみてほしい」そう言われたら、少し気持ちが楽にならへん?

つい「うまくいったか」「結果が出たか」ばっかり気にしてしまうけど、ほんまは「やってみた」って行動自体がすごいことなんや。

たとえば、勉強しても思うような点数が取れへんかったら、落ち込んでしまうこともあるやろ。でも、それでもええねん。「やろう」って思って実際に手を動かした、その一歩があんたの強さやで。

どんなに小さいことでも、チャレンジした自分をちゃんと認めてあげてほしい。結果はオマケやし、思い通りにならんこともある。でも、「やった」って事実は変わらへんし、それだけで十分よう頑張った証拠や。

人と比べたり、完璧を求めて自分を責めるより、「今日はここまでやった」「自分なりに動けた」って、自分の行動をちゃんと見てあげることが大切やと思う。

これからは、うまくいくかどうかよりも、「やってみた自分」をほめる習慣を少しずつ取り入れてみてな。その積み重ねが、あんたの自信や本物の強さにつながっていくはずやで。

自分の物語は、自分で書く

自分の物語は、自分で書いてええんやで」こんな言葉、普段はあんまり意識せえへんかもしれへん。

でも、これってほんまに大切なことやと思うねん。今まで「まじめやな」「ええ子やな」って言われてきた人も多いはずや。もちろん、それはあんたの一面やけど、それだけが全部やない。

誰かに決められた“自分”で生きてきたけど、ほんまはどんな自分でいたいか、ちょっとずつでも考えてみてほしい。

たとえば、「人に気ぃつかうの、もう疲れたな」とか、「もっと自分の好きなこと、素直に言いたいな」って思うこと、ない? 

そう感じるなら、それがあんたの“ほんま”の気持ちなんやと思う。無理して周りに合わせたり、期待に応えようとしすぎて、自分の本音を押し込めてしまうこと、誰にでもある。でも、その「こうしたい」「こうなりたい」って気持ちを、少しずつでも大事にしてあげてほしいんや。

人が決めた「こうあるべき」の枠に自分を閉じ込めるんやなくて、あんた自身が「こうありたい」って思う自分を選んでいくこと。それが、自分らしさや本当の幸せにつながる道やと思う。

たとえ今までと違う選択をしたとしても、あんたが「これが自分や」って思えるなら、それが一番大事なことや。

今日からは、少しずつでも自分の物語を自分の手で書いていく意識を持ってみてな。どんな自分でいたいか、どんなふうに生きたいか。

その答えは、きっとあんたの中にちゃんとある。周りの声に流されず、自分の気持ちに正直になることから始めてみようや。

「見てくれる人」がおらんでも、自分だけは自分を見ててな

見てくれる人」がおらんと、なんや寂しい気持ちになることもあるやろ?でもな、どんなときも自分だけは自分をちゃんと見ててあげてほしいんや。

人に見てほしい、認められたい。そんな気持ちを持つのは当たり前やし、誰だってそうやと思う。でも、その気持ちばっかりに頼ってしまうと、ほんまにがんばってる自分の姿が、自分自身にも見えんようになってまうことがあるんよ。

誰も見てへんで。でも、自分が見てたら、それでええやん」、オカンがくれたこの言葉を、しんどい夜や心細いときに、そっと思い出してほしい。

誰かに見せるためやなくても、あんたの頑張りや努力は、あんた自身が一番よく知ってる。外からの評価や拍手がなくても、自分で「ようやったな」って認めてあげることが、ほんまの自信や満足につながるんや。

これからも、誰かの目を気にしすぎて自分を見失いそうになったときは、「自分だけは自分の一番の味方や」って思い出してみてな。

あんたが歩いてきた道、積み重ねてきた努力や優しさは、ちゃんと自分が見てる。それだけで、あんたは十分ようやっとるんやで。

もし人間関係に疲れてしまったときは、オカンの「消しゴム持ちすぎやわ」っていう言葉が、きっと心をふっと軽くしてくれるはずや。

よかったら【人間関係に疲れたとき、オカンの“消しゴム持ちすぎやわ”が心を軽くする話】も読んでみてな。

最後に、オカンからの手紙

しんどい時は、誰の目も気にせんと、ゆっくり休み。あんたの価値は、他人からの結果や評価やなくて、『生きてる』ってことそのものやで。

――オカンより

【免責事項】

※本記事は、筆者の体験と感情に基づいて構成されたものであり、医療的・心理的アドバイスを目的としたものではありません。心身に深い不調を感じた際は、専門の医療機関へご相談ください。

 

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