「こんな選び方で、ほんまにええんやろか?」
夜中の帰り道。
コンビニの明かりが、やたらとまぶしく見える日がある。
「こんな働き方、合ってるんかな」
「そもそも、間違ってへんかな…」
そうやって自問自答してるうちに、スマホを開けば、同級生は結婚して、家建てて、子供もいてる。
「何やってんのやろ」
心の中で、ひとりツッコミしてまう夜。
そんなときに、ふと思い出すんや。
あのとき、オカンが鍋のフタ片手に放った金言を。
「間違ってても堂々としとき」って、オカンは言うてた
今の時代、「こっちが正解やで」って誰も教えてくれへん。
でもどうしても、“間違えたない”って焦ってまう。
自分もそうやった。
大学の進路を決めるとき、第一志望落ちて、
周りは「浪人してもっかいチャレンジしたらええやん?」
せやけど、もう疲れてて、早く家出たかったし、
ほんで悩みに悩んで、ある日、台所にいてるオカンに言うたんや。
「なあ、この大学でええんかな?間違ってる気がすんねん?」
鍋のフタの金言
そしたらオカン、味噌汁の鍋のフタ、
バンッ!て雑に閉めながら言うた。
「間違ってても堂々としとき!」
いきなりの大声やったからビビったけど、そのあとに続けてこう言うてくれた。
「自分で決めたことやろ?ほなそれが正解やん。
一瞬沈黙して、でもなんか、その言葉がストンと胸に落ちたんよな。
あとからわかる「正解」ってある
結果的に、自分はその大学でよう笑うたし、よう泣いた。
一生の友だちもできたし、結局、今の仕事にもつながってる。
「浪人してたら、またちゃう未来やったんかな」
オカンの言葉通り、“自分で選んだ道”は、
今でも、迷ったときに思い出す。
あの鍋のフタの音と一緒に。
「間違ってもええ。でも、“自分で選んだ”ってことが大事やで」
この時代、正解は人の数だけある。
だからこそ、「誰かの正解」やなくて「自分で選んだ道」
たとえばやな:
- 仕事で悩んでるとき:「どっちが得か」じゃなく「
どっちがオモロそうか」で選ぶ - 恋愛で迷ったとき:「周りがなんて言うか」やなく「
自分が自然でおれるか」で決める - 友だち関係でしんどいとき:「無理してでも付き合う」じゃなく「
心がしんどない方」を選ぶ
間違えてもええねん。
そのぶんネタ増えるし、またオカンに笑われて、立ち直ればええ。
明日からできる“オカン的・選び方”
- 「迷ったら、どっちがオモロイかで選んだらええ」
- 「間違ったら、後で話のネタにしたらええ」
- 「“自分で決めた”ってことが、人生で一番カッコええ」
- 「正解は、あとから“自分で正解にする”もんや」
- 「誰かの期待より、自分の納得」
最後に聞いて
- 今は“正解がない時代”やからこそ、「自分で決める力」が大事なんや
- 「間違ってても堂々としとき」は、
人生の迷子になったときのお守りになる - どっちを選ぶかより、「選んだ自分を信じられるか」が大事やで
【免責事項】
※本記事は医療・
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